SILENT series 2002 -

2002年頃から展開したシリーズで、技法的には鉛筆を主体にしたモノクロームの作品から始まっている。

対象を静観しシンプルに写生するという志向で、コンセプトといった気概は前提にしていない。

描き手としてコンディションを維持する目的から習作、デッサンの延長線上にある作品群。

SILENT  mixed media / paper  2002-2004

SILENT  mixed media / panel  2004-2005

SILENT  mixed media / panel  2005-2007

友人と小さな会場をレンタルしてこれらの作品の一部を発表した当初、私は画学生らしく、「ものを見て描く」という率直な写生行為に励んでいたはずだった—それ以外の余分な考えは、一切排除しようと努めていた。だが現在の私が(2015年の私が)今改めてこれらの作品と向き合ってみると、出来上がった作品たちはどうもそのような「気色」だけで描かれたものには見えない。むしろ当時の私の気概に反して、「余分な考え」はたくさん付着しているように見える。そしてそれらは、描写を進めていく上でのある種の取っ掛かりにさえなっている。当時の私が自分でもよくわからない曖昧な部分として脇に置いていた「無意識」の熱量は、その頃からすでに盛んな情報源として描写の中に取り入れられ、私を突き動かす推進力として機能していたようだ。少なくとも今の私にはそう見えるし、そう思える。

「SILENT」と統一された作品群だが、今の私には解体された「別の事実」の断片のようにしか見えない。私はこれらの作品を過去と同じような眼で見ることはもう出来ない。それよりはもっと別の眼で疑おうとする意識のほうが強く働いてしまう。そしてその意識に疑いを持つことは出来ない。もちろん過去の自分の考えを全て否定しようとまでは思わないが、全てを肯定する気にはもうなれないのだ。ただ私にとって、絵画とはいつまでも完結しない事実である。

画中の描法の中からすくい取れる「ものの見え方」という情報は、意識の中で常に反芻され、その流れは止まることを知らない。ついては、絵画はどこかの時点で完結されることはないし、もちろん時間の壁を超えてまで意図の固定化を約束もしない。何にしてもそうだが、時の流れによる人の意識のうつろいを引き止めることは出来ない(言うまでもなく受け入れる側にも意志の都合があるからだ)。静止した絵画にでさえ、物性としての堅牢な保持能力を引き受ける以上に、真実を絶対化したり時の流れを無力化することはできないのだ。静止した絵画とは、ただ物理的側面を誇張した一つの事実に過ぎない。その善し悪しとは別に、これはもうどうしようもないことである。

きっと私の意識はつかみどころのない時のからくりの中で再編成を繰り返し、新たな拠り所を求めて歩を進めていくのだろうと思う。ある時期に志向した方角がその時の自分にとっての最適化された視座であり、推進力となる堅牢な熱量の「かたち」であるとは思うのだが、これもまた避け難く変異し、解体され、流れていくのだろう。

 

現時点でこれらの作品群は、過去の記録以上の意味合いを持っていない。

SILENT  mixed media / paper  2005

SILENT  mixed media / paper  2005